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翻訳の現場から


2019.11.01

風間先生の翻訳コラム

コラム第59回:ストックホルム症候群

ストックホルム症候群

(C) 2017 BC Pictures LLC All rights reserved.
『ベル・カント とらわれのアリア』 1時間41分
11/15(金) TOHOシネマズ 日比谷ほか全国ロードショー
配給:キノフィルムズ/木下グループ


 南米某国の副大統領邸でテロリストによる人質事件が発生。当日はパーティーが開かれており、その場に居合わせたオペラ歌手と日本人実業家他、大勢のゲストが囚われの身となる。しかし交渉は遅々として進まず、テロリストと人質たちとの奇妙な共同生活が始まる――「ベル・カント とらわれのアリア」はオペラ歌手役にジュリアン・ムーア、実業家役に渡辺謙、通訳に加瀬亮という国際的キャスティングによる新作だ。
 この設定を聞いただけで、ある年齢以上の方は実際の事件を思い出すだろう。そう、ペルー日本大使公邸占拠事件である。1996年12月、ペルーの首都リマの日本大使公邸が祝賀会中にトゥパク・アマル革命運動のメンバーに襲撃され、政府要人、各国の大使、日本企業の駐在員らが人質に取られた。彼らは1997年4月に警察が突入するまで4ヵ月以上拘束され続けることになる。この作品はアン・パチェットの同名小説の映画化であり、実際、上述の事件を下敷きにしている。当時のペルーの大統領は日系のアルベルト・フジモリだったが、映画ではやはり日系のマスダ大統領となっており、劇中で映る国旗は架空のものだがペルーのそれに酷似している。
 さて、誘拐事件や監禁事件では、被害者は犯人に対して恐怖と嫌悪、憎悪を感じると思うのが普通だ。しかし拘束が長引くと、時として被害者は生き延びるために犯人との間に心理的なつながりを築こうとすることが知られている。これをストックホルム症候群という。単に生存のための戦略というだけでなく、場合によっては強制されないのに犯人に協力したり、同情するようになることがあるのだそうだ。
 これは1973年にストックホルムで起きた銀行強盗人質立てこもり事件において、人質が犯人に協力して警察に敵対する行動を取ったり、解放後も犯人をかばう証言を行ったことからその名が付けられた。そんなバカなことがと思うかもしれないが、他にも似たような例は多く報告されている。有名なパトリシア・ハースト事件では、誘拐された新聞王ハースト(「市民ケーン」のモデルとして知られる)の孫娘パトリシアが、後に犯行グループと共に銀行強盗の一員に加わっており、ライフルを持つ彼女の姿は世間を大いに驚かせた。
 しかし親近感を抱くのは人質だけではない。もうひとつ、リマ症候群というのが知られている。これはストックホルム症候群と逆で、犯人が人質に対して同情的な態度を取る現象を指す。リマと名づけられたのは、奇しくも本作のモデルとなった上述のペルー日本大使公邸占拠事件が由来だ。ただ、人質と違って犯人側の方が立場は上だ。だから例えば人質が知識人で、尊敬の念や相手への興味から同情心が芽生えるといった特定の条件が必要だと言われている。
 映画では「狼たちの午後」を始め、ストックホルム症候群を描く作品は多い。広い目で見れば「キングコング」や「美女と野獣」のヒロインたちもストックホルム症候群だったという意見もあるが、ある意味納得だ。拘束下での人間ドラマを描こうとすれば、犯人への恐怖や怒りだけでは単調になる。人質が犯人に同情したり、犯人が人質を尊敬するという設定は面白い。本作においても拘束が続く中、あることを契機に、テロリストと人質の間に交流が生まれ始める。それを症候群と見るか、人間関係の構築と見るか、それは映画を見て皆さんが判断してください!

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