ホームズ事始
昔ホームズに凝ったことがあり、パシフィカ(今はもうない出版社)の「名探偵読本 シャーロック・ホームズ」というムック本を持っている。理由があって今回読み直した際、翻訳に関する面白い話があったことを思い出した。新井清司という方が書いた「明治期におけるドイル移入史」という研究だ。後にホームズの研究本に再録されたらしいが、その本も今は絶版になっている。目にする機会があまりないと思うので、ここに紹介してみたい。
題名からも分かるとおりドイルの作品、中でもホームズものを中心に、日本に移入された歴史を追っている。一般的には南陽外史(なんようがいし)が明治32年7月に「不思議の探偵」の題名で「シャーロック・ホームズの冒険」を紹介したのが最初とされている。これは中央新聞に連載という形で発表された。しかし、これよりわずかに早い同年4月、毎日新聞に無名氏訳の「血染の壁」という連載が始まっていた。読めば「緋色の研究」を翻案したのは明らかだが、その訳し方が楽しい。
まず、語り手は和田進一という軍医として紹介され、日清戦争に従軍して台湾で負傷したことになっている。もちろん誰だかお分かりですね。軍医としてアフガニスタンに出征し、負傷して帰国したワトスン博士です。当時は欧米の名前や地名、文化に馴染みがないため、翻訳ではなく翻案という形で舞台を日本に置き換えるのが主流だった。だからまず名前で楽しめる。ワトスンが和田ですからね。実に味わい深い。そして主人公たるホームズは小室泰六である。恐らく「こむろたいろく」と読むのだろう。名前のシャーロックは泰六(たいろく)と音も合っている。姓のホームズが「小室」になった理由はよく分からない。「室」が部屋の意味なので、ホーム(ズ)=家から連想したのだろうか。実際のスペルはHolmesでHomesではないのだが……
そして何より愉快なのが、原作における血文字“RACHE”の部分だ。「緋色の研究」は古典なので、以下謎解きの核心に触れる。ご注意ください。
殺人事件が起こり、現場の壁には血で“RACHE”と書かれていた。これを見て警察はRACHEL/レイチェルという女性の名前を書こうとした途中だと断定し、事件にレイチェルという女が関係しているのだと考えた。しかしホームズはRACHE/ラッヘ=復讐という意味のドイツ語だと看破する。原作でも有名な場面である。
これを「血染の壁」でどう翻案しているかというと“ふく”の2文字に置き換えているのだ。以下原文を引く。「それから『ふく』の二字だね、これは君、女の名ぢゃあ無い、復讐の二字を仮名で書かうと試みたのだよ」
どうです!!最初にこの部分を読んだ時、僕は吹き出すと同時に感心した。丸髷に和服のおふくさんという女性を想像したのだ。それとホームズの世界との違和感が何ともいえないではないか。しかも、これは完璧に女性の名前だ。明治時代ならタキ、リウなど女性の名前は2文字のものが普通だった。だから“ふく”という名前は極めて自然なのだ。明治生まれの僕の祖母も名前をサタといった。
そして今、翻訳業を生業とするようになって、僕は改めてこの翻案に感心している。英語のギャグを笑えない日本語に置き換えたり、英語のルビを振って何とかシャレだと伝えるだけで満足する日々を送っている僕は、内心常に“ふく”に匹敵する訳が作れないかと悶々としているのだ。確かに“ふくしゅう”から“ふく”だから何のひねりもない。そのままである。しかも翻案だから、翻訳とはいろいろ事情が違う。それでも、この訳の見事さには感動してしまうのだ。僕にとっておふくさんは永遠の憧れの女性なのである。