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翻訳の現場から


2023.03.07

風間先生の翻訳コラム

コラム第99回:たまには英文法の話

たまには英文法の話

 これは字幕翻訳スクールのコラムなのであるからして、たまには真面目に英文法の話をしてみよう。ということで、まずは過去にやった作品から。鍵のかかった列車のトイレで女性が遺体で発見され、重要な情報を入れたバッグが消えていた。鍵はコイン等で外から簡単に開けることが可能だ。彼女は直前にコーヒーを飲んでいたことが分かり、毒を盛られた可能性も浮かんできた。捜査官の1人が次のセリフを言う。
So nobody had to break into the lavatory, not if she was poisoned.
 if notならunlessだが、ここはnot if。if以下の内容を全否定しているのだと考え「つまり誰もトイレに入る必要はなかった。彼女が毒殺されたのなら別だけど」→「彼女が毒殺されたのなら誰かがトイレに入ったはず」と解釈し「毒殺したのなら誰かがバッグを取りに侵入したはずだ」と言いたいのだと考えた。
しかし、チェッカーは、ここは殺害方法に言及しているのではないかと言う。つまり「もし毒殺されたのなら誰もトイレに侵入する必要はない」という意味ではと言うのだ。だが、それならSo nobody had to break into the lavatory, if she was poisoned. とnotがなくていいはずだ、ある以上は上記のように「毒殺されたのなら話は別」という解釈になるのでは?
 結論から言うと、やはり殺害方法についての言及で、僕の解釈は間違っていた。実は、このnotとは付加疑問文の答えのように形式的に挿入されるので、notは無視してif 以下を訳せばいいのだ。というか、本当は形式的というより感覚的なものらしい。
 英文は1つの文章に肯定形と否定形は混在しないという原則がある。付加疑問文の答えが日本語なら「いいえ、好きです」でも英語なら“Yes, I like it”となるのもこの原則にあてはまる。従ってSo nobody had to break into the lavatory, if she was poisoned. だと前半が否定形なのに、if以下の後半は肯定形となるため、英語では矛盾と取られるのだ。だから前半の否定形に合わせて、if の前にnotを入れて否定することでそろえる必要があり、結局はSo nobody had to break into the lavatory, not if she was poisoned. となるのだ。
 ただし話者が別ならnot ifは「~なら別」と解釈するのが正解だ。A:So nobody had to break into the lavatory./B:Not if she was poisoned.→A:誰もトイレに侵入する必要はなかった/B:彼女が毒殺されたのなら話は別だが となる。

 次はジャズのスタンダードのタイトル“You’d be so nice to come home to”だ。多くの人がカバーしているが、日本だと“ニューヨークのため息”ヘレン・メリルのバージョンが有名だろう。“帰ってくれたらうれしいわ”という邦題で知られているが、訳したのは大橋巨泉だそうだ。そして、これが誤訳なのである。巨泉自身も後に誤訳に気づき、その旨の発言をしている。
 さて、この文章が引っかかるのは最後のtoだろう。toの後に目的語がない。欠落感がある。そして、主語がyouなので、帰ってくる先はmeだろう、つまりcome home to meと解釈してしまう。だから変だなと思いつつ「(私の元に)帰ってくれたらうれしい」と訳してしまうのだ。しかし、この欠落感こそがポイントなのだ。
 これは文法ではTOUGH移動という構文らしい。曲名を例に取るとIt would be so nice to come home to you. という形式主語の文章があるとする。このyouを主語の位置に持って来ることができるのだ。即ち You would (You’d) be so nice to come home to.となる。だから最後にtoが残るわけだ。この移動のことをTOUGH移動という。従って曲名の正しい意味は、移動前の形式主語構文を想定し「あなたの所へ帰れたらどんなに素敵でしょう」となる。誤訳の邦題では帰るのはあなただが、正しい訳では帰るのは話者=私である。
 ただし、ネイティブはこのような文法的な説明は考えない。この曲名を見たら、come home toの欠落感で、帰る先は主語のyouだなと思うのだそうだ。
 今回“You’d be so nice to come home to”について調べていたら青江三奈もこの曲を歌っていた。流行歌手になる前の彼女はジャズシンガーだったそうで、それなら歌っていても不思議はない。“ニューヨークのため息”だけでなく“伊勢佐木町のため息”も歌っていたわけですね。

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