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翻訳の現場から


2023.08.08

風間先生の翻訳コラム

コラム第104回:1万時間の彼方

1万時間の彼方

 ある映画でセーリングの話をしている。どんなに経歴が立派でも、この海のことを知らないと失敗するぞ、という流れでセリフが続くのだが、その中に次のようなセリフが出てきた。if you haven’t sailed here, if you haven’t put in your 10,000 hours―― hereというのはここ→この海ということ。「この海でのセイリング経験がないなら、1万時間を費やしてないなら」失敗するぞ、と言っているわけだ。ここで少し引っかかったのが1万時間という数字だ。経験がないから分からないのだが、セーリングの世界では1万時間、船に乗ってやっと1人前だというような暗黙の了解でもあるのだろうか。流してもいいのだが気になるので調べてみる。
 実は“1万時間の法則/10,000 Hours Rule”というのがあるらしいのだ。自己啓発などの世界では有名らしいが僕は知らなかった。イギリスの元新聞記者、マルコム・グラッドウェルが著書「天才! 成功する人々の法則」で書いたものが元になっている。同書は邦題があることでも分かるように邦訳ありだ。簡単に言えば「大成功を収めるには1万時間もの練習量/下積み期間が必要だ」ということだ。仮に何かを1日3時間練習するとしたら、1万時間に達するには約10年かかる計算になる。それだけの下積み、努力がないと大成功しないということだ。
 
「1万時間」について調べていたらさらに面白い話があったので続けて書いてみる。以下の内容は下記のHPを参考にした。
https://studyhacker.net/ten-thousand-rule

 この「1万時間」に対してはいろいろな反論があるが、主なものは次の2つだ。まず、成功するのに1万時間も必要ないというもの。もっと効率的な方法で1万時間もかけずに成功することはできるという意見だ。もうひとつは、成功には努力だけでなく、生まれながらの才能や環境なども重要な要素だというものだ。
 この2つの反論については次のような説明が成されている。元々グラッドウェルが主張した1万時間というのは大成功を収めるためのもの。つまり「特定の分野(=極めて競争の激しい分野)で世界レベルのトップになるためには1万時間という膨大な練習・努力が必要」ということだ。それが「何かのエキスパートになるには1万時間かかる」と誤解され、さらに「何かを学んでものにするには1万時間かかる」となったというのだ。つまり伝言ゲームのように少しずつ内容が誤解されて伝わっていったのではという説明がある。
 ただ、グラッドウェルが言いたかったのは、目標や夢を実現させるためには努力が必要だということだろう。世界レベルにいくのでなければ1万時間は必要ないかもしれないが、それでも継続的な努力は必要だ。しかも、天才と呼ばれる人ほど進んで努力するのだそうだ。天才とは天賦の才能なのではなく、継続的な努力ができる才能なのだと聞く。
 冒頭で上げたセリフは、この海のことを世界中で誰よりも知っていないとダメだという意味では使っていないと思う。この海でそれなりの経験を積んでいないと失敗するぞということだろう。難しい海だという説明が前後であるから「それなりの」は「かなりの」と置き換えていいかもしれないが、それでも世界のトップレベルという意識はないと思う。
 ということで「1万時間/10,000 hours」という数字はキーワードとして覚えておこう。

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