エメット・ティル
『ティル』
12月15日(金)TOHOシネマズ シャンテほかにて全国公開
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配給:パルコ ユニバーサル映画
映画「ティル」が間もなく公開される。タイトルは人名で、エメット・ティルのこと。彼の事件については拙コラム第86回でも取り上げたし、昨年成立した反リンチ法にも名前が冠されているのでご存じの方もいると思う。
さて、当コラムは基本的にネタバレなしで書いてきたが今回は物語の内容に触れます――といってもティルの事件や裁判の経緯を知っている人には周知の内容だ。今回は映画を見ただけでは気づかない、または見落とすかもしれないことを書く。僕自身がそれを理解するに当たっては「エメット・ティルの血」という本が大いに参考になった。以下「同書」と略す。
1)裁判に至るまで:わずか14歳の少年がリンチの末に殺されたという事件の非道さから、裁判になって当然だと思いがちだ。僕も以前にこの事件を調べた時にはそう思っていた。しかし勘違いしてはいけないのは、当時のミシシッピ(南部でも特に黒人差別が激しかった)では、黒人のリンチ殺人は当たり前とは言わないまでも大事ではなかったのだ。被害者が14歳でも普段なら裁判にならなかっただろう。
だが事件当時は現地で著名な黒人公民権運動家が相次いで殺されており、リンチへの関心が高まりつつあった。これにNAACP/全米黒人地位向上協会の巧みな世論操作が加わり、事件は世間の関心を集めるに至る――これについては作品内でも語られている。さらにティルの母親が棺を開けて葬儀を行ったため、リンチのすさまじさは全米の知るところとなり、裁判を開かざるを得なくなったのだ。要はタイミングであり、それに母親の強い意志が加わった。つまり僥倖と言ってよく、時期が違えばティルの事件も闇に葬られていただろう。
2)裁判での呼称:裁判が始まると、エメットの母親、メイミー・ブラッドリーが証言台に立つ。検察官(つまりは彼女の味方)は“メイミー”と呼びかける。それに対し、単純な質問にメイミーは“イエス・サー”“ノー・サー”と答える。これは異常なこと、少なくとも東部ではありえない。裁判では証人に対してミスター/ミセス(ミズ)で呼びかけるのが普通だからだ。また、答えるに当たって敬語である“サー”を付けることは普通ない。
実は当時のミシシッピでは、白人は黒人をファーストネームで呼ぶのが普通で、それに対して黒人は常に“サー”を付けて答える。だから検察官(当然白人)は慣例で、何の悪気もなく“メイミー”と呼んだのだ。メイミーは南部出身ではないので、わざと“サー”を付けることでミシシッピの歪んだ慣例を際立たせたらしい。同書では、東部の記者にはいささか芝居がかって見えたと書いている。
この慣例は恐らく奴隷制時代の名残だと思う。奴隷制時、黒人は姓を持たなかった。だから白人が呼ぶ時はファーストネームを呼ぶしかなく、黒人は主人である白人に“サー”と敬語を使うのが当たり前だった。それがそのまま続いているのだろう。奴隷解放宣言が1862年、南北戦争終結が1865年だ。それから百年近く経過しているのに、当時のミシシッピの白人のマインドが変わっていないというのは恐ろしい。
翻訳の際、最初“メイミー”と呼びかけるのは親しみの表れだと思っていた。また“イエス・サー”は字数を考えたら普通は“はい”としか訳さないからスルーしていた。しかしメイミーの証言の内容に心を打たれたのであろう検察官は、最後に“ミセス・ブラッドリー”と呼ぶ。ここで初めて呼称に違いに気づき、背後に何かあるとは思ったが、その意味するところは分からなかった。その後、同書を読むことで呼称の違いや敬語の本当の意味を知ることができた。そこで呼称にはルビ点を振り、初出の“はい”に“イエス・サー”とルビを振って対処している。同書を読まなければここまで突っ込んだ翻訳はできなかっただろう。